15歳で白血病と診断され、2年後に骨髄移植で完治。治療で高校進学が遅れたが、17歳で特別編入が認められ無事に卒業。今年就職したばかりの新社会人。
PROFILE
小畑和馬さん
僕は急性リンパ性白血病だったんですよ。15歳の時に発病しました。それまでずっとラグビーのクラブチームに所属していて、健康でガタイも良かった。身長170cmで体重は当時70kg、それもほとんど筋肉っていう状態。
スポーツは僕、なんでもできるんですよ。サッカー、バスケ、野球、バレーに卓球、水泳も得意だったし、そのなかでも面白かったのがラグビーですね。チームには小学校の時から入っていて、これからの人生ラグビーで過ごそうかなと思ってたくらい。高校もこれでやって行けたらと思っていた矢先に、病気にかかっちゃたんです。
中学3年の1月末ぐらいに、貧血がひどくて病院行ったんですよ。その前から貧血の症状が出てたんですけど、うちのおふくろも強いんで「そんなの気合で何とかなる!学校に行け!」っていう感じで(笑)。でも1カ月ぐらいそんな状態が続いて、もうつらくてつらくて、顔色も真っ青になるし。それで近くの大学病院に行ったら「とりあえず入院して」ということで闘病生活が始まりました。
病気の告知は特にされなかったです。ただ、どんな病気かは予想ついてましたね。治療の説明で先生から「髪の毛が抜ける薬を使うよ」と言われたし、そんなこと聞いたらだいたいわかるじゃないですか、「ああ、白血病だな」って。今の世の中、情報が溢れてるし、テレビドラマに取り上げられたりすることもあるし、そういうの見てれば誰でも分かるでしょ。
実は僕、14歳の時にも突然ギラン・バレー症候群にかかって入院していたんですよ。このときのほうが僕にとってはキツかった。ギラン・バレーってどんな病気かご存知ですが? 原因はよくわかっていないんですが、神経の病気で体中の筋肉が麻痺しちゃうんです。ひどい時は呼吸も自力でできなくなる。僕も発症してすぐ集中治療室にしばらく入院してました。中学生にもなってオムツもつけましたよ。
でもなにがキツいって、しゃべれないことです。声はかろうじて出せるんだけど、言葉がしゃべれない。耳は聞こえていたんで、まわりが何言ってるかは分かるんですけど、体は動かせないししゃべれないしで、自分の意志表示がまったくできない。これがつらかった。その印象が強烈だったんで、白血病自体はさほどショックじゃなかったんです。あとで病室に置いてあった診断書が見て、きちんとした病名が分かったんですけど、そのときも「だったら治すしかないか。しゃぁないな」という感じでしたね。
最初に入院した病院は私立で、治療費も高かったんで、1年ほど後に公立の病院に転院しました。その病院には白血病にすごく詳しい先生がいて、最初から「移植したほうがいいね」と言われていた。僕も「そのほうが治る確率が高いならしようよ」と思っていました。 ただその病院では、非血縁者のドナーから提供を受ける移植はできなかったんです。それで、5カ月後ぐらいかな? 別の国立病院に転院して、17歳の時に骨髄移植を受けました。移植しようと決めてから1年半くらいかかりましたね。ドナーそのものは半年くらいで見つかったんですけど、僕のほうが遺伝子レベルで病気が再発したりして、なかなかタイミングが合わなかったんです。
移植までの治療は、気持ち悪かったり、治療中は病室の外に出られないとか、いろいろ制約があったけど、それがつらいとか苦しいとかっていうのはあんまりなかったですね。
大変だったのは移植を受けた後。無菌室から出て真菌性の肺炎にかかっちゃったんですが、それがかなりひどかったんです。下手すると死んじゃう人もいるような肺炎で、ほぼ1カ月間40℃の熱が出っぱなし。熱が下がったときは70kgあった体重が48kgになってました。1カ月で22kgのダイエットですよ。体は、ほとんど骨と皮。煮ても焼いても食えないですよ、"身"がないんですから(笑)。
その肺炎のせいで、移植のあと約9カ月寝たきりでした。自力でモノが食べれないときもあって、一時期は体に9個、点滴用のポンプが付いてましたからね。もうチューブだらけて、我ながらすごい格好してました(笑)。
肺炎が終わった後は腎臓のクリーニングです。それまでいろんな薬を使ってたから、腎臓がおかしくなってて、体内に蓄積された薬をろ過するのに時間がかかりました。点滴で強制的におしっこを出すんですけど、そうやって腎臓がきれいになるのをひたすら待つしかない。腎臓がオッケーになったところで退院。家に帰ってからも、筋肉が衰えているから、しばらくは普通に立ったり歩いたりできなず車椅子生活を送ってました。
この肺炎から回復しただけでも「奇跡だ」と言われたんですが、あとで病気のことをよく聞いてみたら、僕のは白血病のなかでもフィラデルフィア症候群というタイプで、治すには移植しかないっていう病気だったんです。それも発病年齢が高くなればなるほど、ハイリスク(治りにくい)になるわけで、僕はフィラデルフィア症候群のハイリスクタイプ、それが移植で良くなったのも「奇跡だ」「生きているだけですごい!」って言われるんです。でも本人的には、別にすごくないっていうか。ただ単に運が良かったっていうだけの話。
それよりもスポーツやってて良かった!って思いました。もともとラグビーやってて、体力があったから助かったようなものだって言われたし。スポーツ馬鹿で良かった!(笑)
2年半という長い入院生活だったけど、僕にとってマイナスなことはひとつもなかった。性格的にも病気を苦にして内に閉じこもるタイプでもないんで、小児科で小さい子の相手をしたり、お母さんたちと知り合いになったり、看護婦さんや若いお医者さんと友達になったりして。治療の間に忍耐力も鍛えられたし、すべてが僕の糧ですよ。
唯一ネックだったのは高校進学ですね。15、16とちょうど受験の時期と入院治療が重なったんで高校に入れなかったんです。その間僕は学生でもない、社会人でもない、いわゆる"プー太郎"です。移植のために転院した病院には高校までの養護学級が揃っていたんですけど、僕が転院したのが5月で、もう受験は終わっていたからそこにも入れない。養護学校の先生が都の教育委員会に掛け合ってくれたりしたんですが、前例がないということで、当初、転入は認められなかったんです。
仕方が無いから僕、都知事あてに手紙を書いたんですよ。「どうしても高校に行きたいから編入を認めてくれ」って。当時はまだ青島さんの頃です。 そしたら1週間後に教育委員会の人が来て、面接があって「なんでここに入りたいんですか」って聞くんです。正直いって、アホか!? と思いましたね(笑)。僕は「勉強がしたい。社会に出ることを考えたら、高校卒業っていうのも必要になるし、自分の将来のために高校に入りたい」って説明したら、その1 週間後に「6月1日付の途中入学を認めます」っていう通知が届いたんです。
都内でも日本でも初めてのことなんですよ。今まで何年もこういう要望はあったのに認められなかったのが、僕のことでやっと前例が作れたんです。僕自身嬉しかったけど、これで病気の治療中で教育を受けたいと望んでいる人たちにも役に立つことができた。「すごいことやっちゃったよ!」(笑)と思いましたね。
そんな経験をしたせいもあって、僕にコーディネーターをやらせてくれないかなと思うんですよ。もちろん元患者ができないのは知ってますけど、僕は患者さんの立場が分かる。ドナーの人の気持ちも、全部わかるとは言えないけど、人の役に立ちたいという気持ちを察することができると思う。自分自身がそういう気持ちを持っているから。
入院中の高校編入を許可された初めての例ということで、医療シンポジウムに呼ばれて、自分の経験を話すこともあります。僕と同じように、病気のために勉強したくてもできない立場の人たちがいるってことはあまり知られてない。でも僕の経験がそういう人たちの役に立てたらいいなと思うんです。小泉さんじゃないけど、僕もなにかでっかい改革をやってみたいですね(笑)。