1991年に慢性骨髄性白血病であることが分かり、1994年に骨髄バンクを介した骨髄移植を経験。入院期間を含む約1年以上の療養を経て社会復帰。
PROFILE
大竹文さん
病気のことは、32歳の時に受けた会社の健康診断で分かったんです。私の会社はテレビなどのマスコミを通じて企業の広告パブリシティを行なう会社で、営業を担当していたものですから、それまでは忙しくて健康診断も受けたり受けなかったりだったんです。30歳過ぎると血液検査なんかも加わるというんで「じゃ受けなきゃね」なんて感じで、たまたまその年は受けたんですよ。
そしたら「精密検査を」という連絡が来て、近くの小さなクリニックで採血してもらったら「うちでは詳しい検査ができないから」と都立広尾病院を紹介され、そこで骨髄穿刺という検査があり、病名も聞かないうちに「あなたは骨髄移植を受けたほうがいい。骨髄移植をやっている病院を紹介しましょう」と言われて、都立駒込病院に通うことになったんです。告知もされないうちに、そんな話になったのは、今思えば妙なんですけどね(笑)。
病気のことは、広尾病院に紹介されたときからうすうす感じてました。というのも、検査のための通院で仕事を休むでしょ。そうすると診断書をもらうことになる。糊付けした封筒に入ってるんですけど、自分のことだし興味あったからこっそり開けてみたんですよ。
病名の部分は外国語でわかんないんだけど「......の疑いあり」なんて書いてある。外国語が分かる会社のスタッフに「これどういう意味?」って聞いたら、「ああ、これは白血病だよ」なんて言うんです。私も、周囲の人達もびっくりして「本当? 間違いじゃない?」なんて聞いたんですけど、そのスタッフ、半分外人みたいな人なもんですから「間違いない、僕のワイフの親もこれと同じ名前の病気で、ウン年前に亡くなったんだから!」なんて自信満々に答える。それまで私、病気したこともないし、元気だったから「誤診じゃないの?」と思ったんですけど、そんなわけで告知される前から一応の覚悟はしていたというか......。
最初の入院は2カ月間でした。検査入院ということだったんです。治療といっても朝1本、注射されるだけで、あとは何にもなし。暇で暇で、とにかく寝てばっかり。看護婦さんも最初は「大竹さん、疲れてたんだねェ」なんてそっとしててくれたのに、そのうち締めてたカーテンをシャ!っと開けるようになりって...... 寝てばかりいる人なんだと思われてたみたいでした(笑)。
その入院でも本当の病名は聞かされなくて、ただその時点での診断名は知っていたんですが。同じ病室の子たちに聞くと「あたしも同じ病気」という人が多かったんです。でも髪の毛が抜けたりしてる子もいたり、病状もいろいろで「なんなんだろうな、この入院は」と思いながら過ごしてましたね。「もう、こんなとこには来ない!」と思って退院したんですが、その1カ月後に、ようやく主治医から告知されたんです「白血病だ」って。家族にはもっと前に知らされていたようですが。 治るためには骨髄移植をしなきゃいけないといわれたんですが、当時、駒込病院ではまだ、肉親以外の人の骨髄移植を行なってなかったんですよ。移植を受けるためには、病院を代わらなくちゃいけないと言われて、気心の知れた主治医が代わるのは嫌だなぁと思っていたんです。結局ドナーが見つかるまで1年半もかかってしまい、その間に駒込病院でも肉親以外の人からの骨髄移植が受けられるようになり、ある意味で待ったかいがありました。
実は自分の移植のことをドキュメンタリー番組として制作したんです。日本テレビの番組で当時は『ドキュメント95』という枠だったんですが、自分の移植と、ドナーの骨髄提供を含めたドキュメンタリーで、放映後はいろんな賞をいただいたり、結構評判が良かったんですよ。なんで番組にすることを思いついたかと言うと、入院の間に会社の社長が見舞いに来てくれて「お前、こんなに休んでノルマどうするんだ? 給料泥棒だそ」なんて冗談言われたんですね。実は私も寝ねがらでもできる仕事はないかなぁと考えていたところで、「そうだ、病院のことを番組にすればテレビ局に売りこめる!そうすれば仕事にもなるし」と思い至ったわけです。
だから告知されて移植のために入院するまでは、白血病だったというショックよりも「動けるうちに、いろんな段取りつけておかなくちゃ!」という気持ちのほうが強くて、気が張る毎日だったように思います。
無菌室に入った後の撮影は、自分でしなきゃいけないこともあって、移植のための入院も、最初は半分仕事みたいな気分がありましたね(笑)。
移植そのものはうまくいったんです。血液型が違う人がドナーだったので、骨髄液は赤血球や血小板を除いたもので約180ccと、量もそんなになかったですし。移植そのものは20分ほどだったと思います。移植のときは、両親や姉、会社の同僚もかけつけて見守ってくれました。
問題はそのあとだったんです。骨髄はうまく定着してくれたんですが、抗がん剤の副作用が強く出て、肝臓や腎臓に移植の合併症が起こったり、ウィルスに感染したりで1年近く入院していました。退院してからも、半年くらいは自宅でリハビリを続けて、会社に復帰するまでにこぎつけたんです。
今は普通に仕事して、お酒も飲むしタバコも吸うし、ほぼ普通に生活していますが、それでも何もかも元通りというわけにはいかないですね。まず長い入院で筋肉が萎縮してしまって、今は正座ができない状態ですし、脱毛も部分的に残ってしまいました。また治療で体質が変ってしまって、汗が出なくなったんです。風邪を引いて熱が出るたびに、入院して抗生物質を点滴しないと熱が下がらないということもあります。
無理ができないということもありますけど、病気をしてからは自分の体をまめに手入れするようになりました。スポーツクラブや、免疫力を上げるという鍼治療に定期的に通ったり、疲れを溜めないようにまめにマッサージを受けたりしてますね。
私の場合は、移植を半分仕事にしてしまったみたいな、ちょっと変わったケースですけど。ドナーが見つかるまで、見つかってからも移植に成功するまで、いろんなことを考えましたよ。なんといっても、移植そのものの成功率は約50%ですから。番組の制作も「もし、私が死んだら」というシナリオを想定してたくらいです。
患者の立場は「ドナーが何人いますよ」と気持ちを持ち上げられたり、「やっぱり適合しませんでした」と下げられたりするので、その間は本当に落ち込むことも多いです。私も最初のドナー候補は5人いて、それが1人減り、2人減りしていくなかで、やっと最後の1人で適合となりました。
病院で知りあった同じ病気の子たちとは今も交流が続いています。私が一番年上で、みんな若い子なんですけど。私は、発病する前から仕事をしていて職場に復帰できましたが、20歳前後で発病した子たちは、病気が治っても体調を崩しやすいのが障害になって、就職や仕事を持つことがなかなか難しい。ドナー登録も増えて欲しいし、骨髄バンクへの広がることで、そうしたことも解消しされていけばいいなと思っています。