急性リンパ性白血病になったのは6年前、中学3年になったばかりの初夏でした。
化学療法(抗がん剤による治療のこと)を経て骨髄バンクのドナーによる骨髄移植を受けてから3年あまりたち、今は明治大学商学部に通う20歳。「毎日がものすごく楽しい」と語る大学生活を送りながら、骨髄バンクのボランティア活動にも乗り出しています。
PROFILE
宝子山祐太さん
発病したのは、修学旅行が近づいていた6月でした。脇の下のリンパ腺にしこりのようなものができたと思ったら、徐々にクビや股関節にもできたんです。近所の医院で血液検査をしたら「大丈夫だとは思いますが、大きい病院で再検査を」と言われたので、東海大学病院へ行ったところ、すぐに入院となりました。
入院中の楽しみは、なんといっても外泊なんです。金曜に病院を出て日曜に戻る二泊三日のパターンですが、食べることが何よりも好きでしたから、そうすると8食を病院の外で食べられるわけです。病室にいるころから、「さて何を食べようか」と考える時間も楽しかったですね。
最初、僕には検査入院とだけしか伝えられませんでしたが、両親はすぐ病名を告げられたようですね。「3カ月の治療だから」ということだったので、それを乗り越えればいいんだろうぐらいに考えていました。ところが、さらに半年と言われ、それが終わったらまた半年ということで、結局は1年2カ月間の化学療法を受けて、翌年8月に退院できました。
発病のころは高校受験も控えていましたし、2学期には戻れると聞いていたので安心していたんです。それが次々と延長されたものですから、まずは院内学級に転校手続きをとって、そこで中学生活を送ったわけです。いよいよ高校進学という段になって、レベルをワンランク下げたほうがいいとか、あるいは1年待って受験し直したほうがいいとか、いろんな助言がありました。
たまたま病棟に高校生がいて、聞いてみたら東海大学付属の望星高校に通っていたんです。通信制だから割合、勉強しやすいという話でした。両親と相談して、最終的にはそこがいいだろうということになったんですね。
ところが、高校2年生の4月頃からふしぶしが痛くなる症状が出て、6月に再入院しました。再発してしまったんです。きちんと病名を告知されたのもこの時です。一瞬、死ぬんじゃないかと思いましたが、先生から「これは助かる病気なんだよ」と言われましたので、「僕もがんばりますから先生よろしく」ってお願いしました。それでも、告知された日はずっと落ち込んでいました。不思議と翌日からはなんとか気持ちを切り替えることができました。やり残したことも結構ありましたし、サッカー大好き人間として、2002年のワールドカップを心待ちに頑張ったのがよかったのかなと、今は思います。
再発後は、治療も骨髄移植が具体的な話になりました。身内に提供できる人がいなかったので、骨髄バンクに患者登録をしたんです。ドナー候補者との最初の検索で、HLAの適合者が60人もいたそうです。「この中の一人ぐらいは骨髄液を提供してくれるに違いない」と信じきっていました。
僕としては移植を受けることに対して、不安は全くなくて、逆に早く移植したいという気持ちのほうが強かったですね。しかもドナーさんの好意で初めの予定より2カ月以上も早まりました。先生も「こんなに早く決まるのは珍しい」というほどでしたから、ドナーさんの好意には驚いたというか嬉しいというか、とにかくありがたい気持ちでいっぱいです。
移植が決まって気をつけたのは、外泊のとき無理をしないようにしたことです。それよりも心配だったのは、病気になると他の人にはない独特の症状が出てしまうことでした。治療が始まると落ち着きがなくなって、そわそわしてしまうんです。「血液の患者さんを十数年見てきて、君のような患者さんは初めてだ」と先生に言われたくらいで、なんでだかはわからないんですけど、じっと座っていることもできずに廊下をぐるぐる回ったりとかするんですね。それが移植当日に出ちゃったんですよ。無菌室は隔離された狭い部屋じゃないですか。その中で歩き回るのが大変でした。
無菌室にはまるまる3カ月いました。そのときは口内炎もひどくて、もう辛かったですね。でも、準無菌室に移ってからは楽しかったですよ。カップラーメンもお菓子も食べられますし、しゃべるのが好きなので、ナースステーションの前にあるイスに座って看護師さんとずっと話をしたりしていました。親が部屋に電話をかけてもいないことが多くて、はらはらさせちゃいました。看護師さんとは、食べ物の話題が多かったように覚えています。
なによりも励みになったのは、 J リーグのゲームでした。鹿島アントラーズが好きなんですが、その年はセカンドステージで優勝して、チャンピオンシップに進出したんです。これに勝ったときには嬉しくて、飲んでもいい許可が出ていたコーヒーを乾杯みたいにしてました。もちろん病室は一人だったんですけど、僕の叫び声がほかの病室に聞こえたそうです。
高校生のころまでは、実家が飲食業なものですから、調理にすごく興味を持っていて、調理師専門学校へ進もうと考えていました。僕は3年半かかって卒業しているんですが、友達より遅れた半年のあいだに大学へ進学した友人に話を聞くと、「とにかく楽しい」って言うんです。そこで、高校の先生にも相談したら、専門学校は相当ハードだし、大学へ進んで勉強するのも一つの生き方だと言われました。それならと、明治大学商学部の推薦を受けて一発で合格しました。
商学部を選んだのは、将来的には経営者になりたいという希望を持ち始めたからなんです。料理もたまにはしますが、調理師として経営に携われるかと言えば、ちょっと違うのかなって。大学は、やはり楽しいですよ。サークルには入っていませんが、交友関係を深められますし、いろんな意味で充実した大学生活を送っています。神奈川のボランティア団体に入ったのも、ボランティアを続けたいと思ったからです。
骨髄バンクがなければ移植はできなかったでしょうし、生きていないということになるわけです。間接的ではありますが、骨髄バンクのボランティアをすることでドナーさんに感謝の気持ちを返せればという気持ちもあります。
ドナーさんにはすごく会いたいですね。見ず知らずの僕に新たな命をくれたことに感謝をしたいし、お礼を言いたいですよ。骨髄バンクは、患者にしてみれば、「ありがたい」という一言だけでは申し訳ないくらいの組織ですよね。テレビを通じて骨髄バンクを知っている人は多いと思うんです。なので、希望としてはもっと多くの国民に知ってもらうことでしょうか。そのあたりでアピールできればいいと思います。
僕と同じ病気の患者さんには「頑張ってほしい」と伝えたいです。不安を抱えているよりも、治るんだという気持ちを持ってほしいですね。僕自身はこのままボランティア活動を継続していきたいですし、将来は自分の会社を持つのが夢です。