「杖をつく」ライター石原さんは今年、ご自分の闘病経験を「血液型が変わっちゃった!」というタイトルで1冊の本にまとめました。
地元・関西に戻って会社を立ち上げた直後の急性骨髄性白血病の発病。その治療中に知り合い、再発を一緒に乗り越えた奥さんとの出会い......。「骨髄移植でもう一度この世に生きるチャンスを貰った僕ら元・患者にとって、ドナーさんは"お母さん"と同じ、すごい存在なんです」
PROFILE
石原靖之さん
顔も名前も知らない、見返りがあるわけでもない。むしろ痛かったり、不快な思いをしたりするかもしれないのに、すべて承知で提供してくれた。そのことを思うと、ドナーという人はなんてスゴイ、素晴らしいココロを持った人なんだろうと思うんです。僕に提供してくれたドナーさんはもちろん、これからの提供を待つ登録ドナーの人たちも含めて、心の底から「ありがとう!」と言いたいですね。
ドナーさんから貰ったものをひとことで言えば「可能性」です。命をいただいたのだけど、それは単に「生命」というより、これから何年も、何十年も、僕が生きるあいだのすべてが、ドナーさんの骨髄液から始まるんだという感じ。それって、女の人が子どもを産むことと同じだと思うんです。実の母親からオギャーッと生まれたときは何も感じないで生きてきちゃったけど、「骨髄移植」でもう一度生きるチャンスを貰った今は、今度は自分が、他の人の役に立つことをしたいと考えています。それが、自分なりのドナーさんへのお返しになればと思うので。
僕の場合、病気の再発で下半身がマヒして「杖をつく」ようになり、骨髄移植で血液型が変わり、文字通り外見も中身も変わったもんですから、余計に「生まれ変わった」感覚があるのかもしれません。でも、本当に死ぬ寸前のギリギリから、ドナーさんをはじめとするいろんな人の助けで戻ってきた今、僕自身、大きく変わったと感じます。
去年、移植後1年の記念に、妻がドナー登録しました。移植を終えてから、ふたりでそうしようと計画していたことです。僕も一緒に献血ルームに行って、とても感慨深かった。その日を迎えられたことを、あらためてドナーさんに感謝しました。
「杖をつく」ようになったのは、白血病の再発が「腫瘍」という形でやってきたためです。最初の入院中に出会った妻と結婚して4カ月目、東京に戻ってまた出版業界で働きはじめた矢先でした。突然、わき腹のあたりに差し込むような激痛が起こったのをきっかけに、腰や腹のまわりのあちこちに激痛が走るようになってしまった。最初は原因が分からず、医者でも「ヘルニア」といわれて鎮痛剤を貰ったりしてたんです。
そんな生活が2カ月以上続いたある日、急に腰から下の感覚がなくなって、立てなくなったんです。これにはすごく焦りましたね。病院に担ぎ込まれ、あらためて調べてみたら、胸椎(背骨の胸の部分)のなかに腫瘍ができて、下半身の神経を圧迫していたんです。下半身マヒですから、汚い話、下の世話を妻にしてもらわなくちゃならない。これは精神的に非常にキツかったです。なんたって、お互いまだ新婚ほやほやでしたから。でも、ほかに道はなかったんです。
手術して腫瘍を取り除いたら、それが白血病性の腫瘍だということが分かった。しばらくしたら、同じ腫瘍が今度は脳に転移し、次は右手がマヒ。幸い放射線治療で消えてくれましたが、「絶対に治る」と思って退院し結婚したのに、1年もたたないうちの再発で、せっかく前向きで生きようという決心も、このときはさすがに崩れかけました。
その状態を乗り切れたのは、周囲の人の励ましがあったからです。僕らの友人、家族、妻の恩師、いろんな人から励ましをいただきました。主治医や看護師さんたちには、毎日看病に通う妻もいろいろといたわってもらって。1年目の結婚記念日は病棟スタッフの皆さんがパーティーを開いてくれて、寝たきりの僕が妻にプレゼントを渡すなんてこともできたんです。
腫瘍の問題が収まって、ようやく骨髄移植に向けての治療がスタートして。これがまたキツかったです。最初の治療で、腕の血管のほとんどが死んでしまっていたので、毎回点滴の針を刺せる場所を見つけるのが大変でした。また注射液の種類や落ちるスピードによって、血管痛という独特の痛みが出るんですが、これがなんともたとえようがない痛みなんです。
僕の場合、下半身マヒが加わったので、移植前後の無菌室での暮らしに備えて、ベッドからトイレに移る動作とか、腕の筋トレなどのリハビリもしなきゃいけなかった。無菌室では、妻に介護してもらうわけにいかないですからね。普通の体だったら、難なくできたと思うんですが、化学療法と併行してですから、なかなか思うように動かないし、筋力もつかない。僕らもリハビリの理学療法士さんも弱りました。最終的には、無菌室のほうに手すりをつけたり、改造をしてもらって、なんとかクリアしたんです。
そうした治療や準備と併行して、ドナーさんが現れるのを待っていたわけです。最初、国内の候補者が25人いるということを聞いてホッとしました。でも、それから次の段階に進むまでが長かった印象がありますね。また最初に見つかったドナーさんは、 HLA型やDNAの検査では、すごく合っていたので期待していたのですが、最終同意で「提供できない」という返事をいただいた。不安が募りましたね。次のドナーさんが見つかるまで、体が持つかどうかという不安、果たして自分は助かるのかという不安。患者はコーディネートの進み具合が分かりませんから、ひとりひとりのドナーさんの結果を待つ間は、「先の見えない不安」との闘いなんです。
幸い次のドナーさんがほどなく見つかりました。でも、移植の瞬間まで安心できなかったです。自分の体調もあるし、ドナーさんも人間だし、具合が悪くなったとか事故に遭われたなんてことで、移植がふいになるかもしれない。実際に、僕のときはドナーさんが熱を出してしまって、移植が1日延びそうになったんです。
延びることになると主治医から聞いたときは、先生自身も一度延びるとどうなるか分からないとおっしゃって、難しい顔をしていた。あ〜、これで俺はもうダメなんだろうかと思いました。その一方で、ドナーさんをまた探すのかとか、今度は海外ドナーも考えなきゃいけないんだろうかとか、そもそもドナーさんが見つかるんだろうかとか、いろんなことが頭のなかをぐるぐる回りましたね。
移植当日は、担当の先生が直接骨髄液を受け取りに行ったんです。看護師さんから「今、電車で取りに行っています」と聞いて、最先端の医療なのに意外なところがローテクなので、ちょっと驚きました。車じゃないのは、渋滞や事故に巻き込まれないためなんだそうです。
これは後日談ですが、骨髄バンクの調整医師として活動している先生は、最終同意のときに提供しますとドナーさんが言うのを聞くと毎回感激する、そのドナーさんがとても尊い存在に見える、とおっしゃっていました。その話を聞いて僕も妻も感動しました。ドナーになるって、本当にすごいことなんです。そんなすごいことをしてもらったからには、「どうやって生きていこう」なんて悩んでいられない。そのぶん自分のできることを精いっぱいやって、それが少しでも人の役に立てたらなお嬉しい、素直にそんな心境になりました。
移植後、一時期生死の境をさまよったときもあったんですが、それを乗り越えたら GVHDもさほどひどく出ずに退院できた。そのあとすぐ、脚のリハビリのために再入院したんです。最初は車いす生活だと言われましたが、つかまり立ちから始まって、歩行器での歩行、2本杖での歩行とどんどん回復して、最終的に片手杖で歩行できるようになりました。今は趣味のアウトドアにも出かけて、杖つきながらテントを張ったりしています。そうすると、いろんな人が「手伝いましょうか」なんて声をかけてくれるんですよ。
病気をして、障害者になりましたが、「書く」仕事のほうでは、「医療」や「障害」、「福祉」といったジャンルに仕事の幅が広がりました。今年、自分の体験を本にしてみて、単行本というものにも、もっと挑戦したいと思っています。それもみんな骨髄移植を受けることができたお陰です。この先まだ、どんな可能性が広がっているかも分からない、新しい人生をくれたドナーさんへの感謝の気持ち。僕も妻もずっと感じながら、これから生きていくと思います。