「社会人からでも、病気をしても、プロは目指せる」
25歳で急性骨髄性白血病を発症、化学療法で回復も再発し骨髄移植を受けました。
現在、新潟県三条市の地域おこし協力隊として移住し、3人制プロバスケットボール“SANJO BEATERS. EXE(サンジョービーターズ ドットエグゼ)”の選手として活躍中。 闘病体験を通して、バスケットボールにかける道を見出していったお話を伺いました。
(このインタビューは、日本骨髄バンクニュース第56号[2020年7月1日発行]でもご紹介しています)
PROFILE
松岡一成(まつおかいっせい)さん
小3の頃から大学までずっとバスケをやっていました。大学卒業の頃、プロバスケットボールリーグの所属チームからオファーがありましたが、将来のことを考えて都内の広告代理店に就職しました。
屋外広告専門の会社で、厳しい現場が続いていた2015年2月頃、土日になると38度以上の発熱が毎週続き、鼻血が止まらないことも続いて受診。かぜといわれましたが、貧血がひどく通勤もままならなくなり、大学時代も通勤でもいつも目にしていた大きな病院へ行き、即入院。「良く歩いてきたね」と言われました。
急性骨髄性白血病と診断されたのが5月です。8割くらい抗がん剤で治るタイプと言われました。きょうだい(姉と妹)とHLA型は一致せず、骨髄バンクでは1座不一致ドナーが6人いるとわかりました。抗がん剤治療はそれほどつらくはなかったです。
10月に退院して半年間自宅療養し、翌2016年4月に職場復帰。
ところが11月に再発とわかりました。
再発後は抗がん剤が効かないため、移植をすることに。1座不一致ドナーの方は5人になっていて、そのうちの1人に提供していただくことになりました。ドナーさんの仕事の都合により、翌2017年4月に骨髄移植をしました。
移植前の前処置では通常放射線照射を行いますが、主治医の先生の判断で実施しませんでした。僕は先生を信頼して、先生から言われたことだけを守ってきました。「〇〇が効くらしい」という母の言葉にも耳を貸さず、無知こそが正義だと思っていましたね。
移植後のGVHD(移植片対宿主病。ドナーのリンパ球が患者の細胞を攻撃する免疫作用)は、想像をはるかに超えて地獄でした。体がつらすぎて寝られない。でも意識があるうちは大丈夫だと耐えました。
退院後1年間は体調がすぐれず自宅療養。移植の4か月後くらいから、体力づくりに夜バスケの練習を始めました。体力が回復して2018年7月からバスケのコーチの仕事を始めました。
元チームの先輩が2019年2月頃に僕がバスケできるようになったことをSNSで見て、3人制の試合に誘ってくれて、その全国大会の出場権を獲得したことをきっかけに、三条ビーターズからオファーを受けました。不思議にも主治医の先生の出身地も新潟で、「新潟だったらいいよ」と背中を押してくれました。
三条市では、2015年に地域おこし協力隊「NPOソーシャルファームさんじょう」が設立され、その一環で3人制プロバスケットチームも誘致されました。
現在は試合遠征のかたわら、小学校の農業体験プログラムへの参加など、「半農半バスケ」といった感じです。
3人制は通常のコートの半分でゴールが1つ。場所をとらず、年齢も性別も問わず、体力さえあれば誰でも気軽にできるスポーツです。試合時間は10分で21ポイント先取すれば勝ち。攻守の切り替えが早くスピーディーで、ストリート系クロススポーツとして人気が高まり、今度の東京五輪から正式種目になっています。
この下田(しただ)地区(三条ビーターズの本拠地)で、3人制のプロチームがしっかり根付くようにがんばろうと思います。
もう一回5人制のプロチームにチャレンジしてもいいかなという気持ちもあります。自分は元々プロのアスリートで闘病から復帰したわけではないけれど、「社会人になってからでも、病気をしても、プロを目指す夢はかなえられる」ということを伝えていきたいです。
昨年(2019年)、妹が骨髄バンクで提供しました。「お兄ちゃんを助けてくれたから協力したい」と言っていたと母から聞いてうれしかったです。
僕は今、ドナーさんのおかげでこうしていられることへの感謝と、骨髄移植で元気になった自分の姿を多くの人に知ってもらいたいと、講演会活動にも参加しています。
患者にとって、ドナー登録者の人数はモチベーションになります。生きるための希望の数値です。適合者が何人いたとしても、必ず誰かが提供してくれるわけではない。
でも、もし適合通知を受け取ったとしたら、どういう気持ちでバンクに登録したかを見つめ直してもらうことで、ドナーさん自身にとっても、生きる希望につながっていくのではないかなと思います。